阿部茂兵衛銅像の説明版を設置

 「開成社」の創業時の初代社長・阿部茂兵衛の銅像は、昭和4年に建立され、昭和18年に一度供出されました。昭和28年に再建されたものが開成山大神宮の駐車場に建立されています。平成24年4月22日に阿部茂兵衛銅像の説明版を設置しました。


説明版 阿部茂兵衛像 石碑

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阿部茂兵衛銅像
文政10年(1827年)〜明治18年(1883年)没

 戊辰戦争で郡山の町の大半は、戦火で焼失したが、明治政府は、富国強兵・殖産興業によって日本を活気付ける方針を立てた。 明治5年(1872年)、福島県典事中條政恒は、「開拓告論書」を出し、その政策を進めた。そして、中條政恒に物産方(金融業)阿部茂兵衛と鴫原弥作、橋本清衛門を加えた4人で話し合い、開成山開拓(大槻原開拓)の意思を固めた。 明治政府の政策である、殖産興業と士族授産に協力すると共に、町の復興を願う郡山の商人は、阿部茂兵衛を中心に富裕商人が25人が集い、明治6年(1873年)4月「開成社」を設立し、阿部茂兵衛を初代社長として開拓事業に尽力した。開拓地までの道(現さくら通り)を作り、灌漑用水地(現五十鈴湖)を造成、心のよりどころとして開成山大神宮を勧請、開拓事務所として開成館を建設した。この開拓で、新村桑野村(現開成地区)が明治9年(1876年)に誕生した。 明治天皇は、明治9年と14年の2度にわたって桑野村を訪れ、このことが後の国営事業安積野原野開拓と安積疎水事業とつながり、今日の郡山の発展の礎となった。 また、阿部茂兵衛は、開拓に必要な農業用水を確保するため、明治12年(1879年)安積疏水開削事業にも献身し、学校の整備、鉄道敷設にも奔走するなど、財産のほとんどを注ぎ込んで、郡山の発展に尽くした。最後の仕事に移庁運動があるが、福島県庁郡山移転の県議会決議があったが、国に決定を待たずに没した。 阿部茂兵衛の功績をたたえるため、昭和4年(1929年)に羽織袴姿の銅像(三木宗策作)が建立された。昭和18年(1943年)戦争のために、銅像は、一度供出されたが、昭和28年(1953年)11月、開成社社員が明治天皇に拝謁した折のモーニング姿(三坂耿一郎作)で再建された。